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「再生」 日本評論社「ありがとう」より

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 2012年3月11日、私は、この日、テレビの仕事で比叡山にいた。
 大震災の一報を受け、すぐに京都に戻った。ホテルの部屋のテレビで、次から次と映し出される惨状。一つでも多くのいのちが救われることを祈った。
 でも、長くはテレビを見続けることができなかった。あまりにも、哀しい、むごいものだったから。

 私は、夜11時、いつものように京都の繁華街、四条河原町に出かけた。
 夜回りだ。私は、哀しいとき、つらいとき、いつも夜回りに逃げる。きっと出会う子どもたちから、元気をもらいたいから。いつものように、寺町、新京極と、夜回りを続けた。多くの子どもたちに、家に帰るよう話した。
 京都の夜の町は、いつもと変わらなかった。多くの人が、明るく輝く夜の町を遊んでいた。多くの子どもたちが、夜の世界で、昼の世界で受けた傷を癒していた。むなしく哀しい景色だった。

 この日私は、夜回りをわずか2時間でやめた。もう耐えられなかった。
 東北で起きている非日常、そんな時でも京都の夜の町は日常。耐えることができなかった。

 私は、この夜、泣いた。泣きぬれた。

 2008年だった。
 宮城県で講演会を行った日、会場から戻って、ホテルの部屋でいつものようにメールボックスを開くと、こんなメールが届いていた。

「水谷先生、今日先生の講演聞きました。私は中学二年生。リストカッターです。
 先生のことは、本やテレビで知っていました。私と同じようなつらい子がいっぱいいるんだ。私は、一人じゃない。いつも、先生の本を抱きしめて、泣きながら寝ていました。
 今日の講演楽しみでした。母と妹と三人で行きました。講演の3時間前から並んで、一番前の席に座りました。先生の講演を聞いて、いっぱい泣きました。お母さんと妹も、いっぱい泣いていました。講演後の控室で手紙を渡し、先生から名刺をもらった黒い服の女の子、あれが私です。
 先生に手紙を渡してから今まで、返事を待っていました。でも、先生からの連絡はありませんでした。
 私は、これから死にます」

 私は、はっと気づき、背広の胸ポケットから手紙を取り出した。あのとき、すぐに読もうと胸ポケットに入れたまま、次々にやってくる人たちとの挨拶と子どもたちからの相談に追われ、手紙の存在を忘れてしまっていた。しかし、あの女の子の必死な様子は覚えている。
 しっかりのりづけされた封を破るのももどかしく、急いで手紙を読んだ。

「明日は、先生と会える。先生のお話が聞ける。そう考えると、眠れません。きっと会っても、緊張してきちんと話ができません。親もいるし。だから、こうして手紙を書いて、先生に渡します。
 私は、今、中学二年生。リストカッターです。原因はおとうさんです。私のお父さんは漁師。腕はいいらしい。大きい船に乗って、ずっと沖で漁をしています。いいお父さんですが、お酒を飲むと人が変わります。暴れ回り、お母さんや私や弟、妹を叩きます。お父さんが漁でいない時は、家族は笑顔で幸せです。でも、帰ってきた時、家族は緊張します。できるだけ自分の部屋から出ないようにして、息をひそめています。
 私はいつも叩かれ、叱られていたせいか、小学校のころから、人とつき合うことができませんでした。学校でも、いつも小さくなっていた。
 そんな私は、中学に入ってから、いじめにあいました。『しかと』といういじめです。悪口を言われることや、笑われたり叩かれたりすることは、我慢できるし、今までも我慢してきた。でも、しかとは、つらい。
 だから、リストカットを始めました。でも、リスカしていることに気づいたお母さんは、私を心療内科に連れていきました。心療内科ではたくさん薬をくれます。その薬をたくさん飲むと幸せになれるから、ODもしています。でも、今日だけは、切りません。ODもしません。明日は、先生に会えるから。
 中学二年になってからは、死ぬことしか考えていない。リストカットやODで何度も救急車で運ばれ、入院もしました。家に戻れば、お父さんは、もっともっと怒って、私たちを責める。私の責任なのに、お母さんや弟、妹を責めてたたきます。
 先生の本、いっぱい読みました。先生の出たテレビも見ました。そして、思った。先生なら、私を助けてくれる、救ってくれるって。だから、明日、先生に賭けてみます。
 先生、この手紙を読んだら、絶対、絶対連絡ください。ずっとずっと、待っています」

 私は急いで、手紙に書いてあった彼女の携帯に電話をした。呼出音はするのにつながらない。間にあってほしい。祈るような気持ちで、何度も何度もかけ直した。もうだめかと思ったとき、電話がつながり、か細い声が聞こえてきた。
「もしもし......」
「水谷です。ごめんね、連絡が遅れて。今、ホテルに戻ってきたところ。君からのメールと手紙を読ませてもらいました」
 受話器の向こうでは、すすり泣く声がする。
「今日から、君は私の大切な生徒だ。いっしょに生きてみよう。明日を探してみよう。まずは、苦しくなったら、死にたくなったら、すぐに連絡すること。いいね。君の過去は、変えられない。でも、明日はつくれます」
 私はそう言って、そっと電話を切った。

 この日から、千佳は私の生徒になった。でも、困った生徒だ。千佳からは毎日のようにメールが届いた。
「死にたい。死にたい」
「今、睡眠薬100錠飲んだよ。死ぬからね。先生、さようなら」
 私は、彼女のお母さんと連絡を取り合いながら、救急車の手配をし、ときに病院を紹介した。そして、何度もお母さんに頼んだ。
「お願いです。彼女のためにも、子どもたちやあなたのためにも、家から出てください。福祉事務所にも、児童相談所にも、もう話はしてあります」
 でも、いつも返ってくる言葉は、同じだった。
「先生、もう少し待ってください。たしかに、あの人はお酒を飲むと暴れます。でも、本当は優しくて弱い人なんです。私がきちんと話してみます」
 
 私は彼女の高校入学に賭けた。環境が変われば、先生や仲間とのよい出会いが期待できる。
 しかし、高校に入学した彼女は、同じことを繰り返した。みんなが怖いと言って心を閉ざし、いつも一人きりだった。いじめられることはなかったが、その寂しさの中で、リストカットとODは、さらにひどくなっていった。
 私は彼女の高校の校長先生や担任、養護教諭と連絡を取り続けた。高校のトイレでリストカットしたり、ODでふらふらになっていた時は、学校から病院に緊急入院したこともあった。当時の私は、千佳の行動に頭を抱えていた。彼女の生きようとする力、明日への意志が、ODによってどんどん奪われていることに気づいていたからだ。

 2011年3月11日、東北地方で大震災が起こった。
 そんな時も、私のもとには、「死にたい」「リストカットしたい」「つらい」たくさんのメールが届く。私はこの日から、すべてのメールへの返信をやめた。自分のことしか考えていない子どもたちがこんなにもたくさんいることが哀しかった。いや、今この瞬間も苦しんでいる多くの大人たちや子どもたちがいるのに、自分の死を語る子どもたちが許せなかったからだ。

 大震災から数日後、そんな私のもとに、千佳からのメールが届いた。
「先生、千佳だよ。生きていたよ。今度の地震で家は住めなくなりました。今、避難所にいます。
 家族もみんな無事です。無事に再会できたことはもちろんとても嬉しいし、神様に感謝の気持ちでいっぱいです。でも、身内だけが助かっても、よかったなんて言えません。未来を生きるはずだったたくさんの命が、たった数分の地震と、そのあと襲ってきた大きな津波で奪われてしまいました。
 今まで、リストカットとODを繰り返し、死にたい、死にたいと先生に訴えて、甘えていた自分が恥ずかしいです。そんな過去の自分に腹が立ちます。
 考えてみれば、世界中には戦争や飢餓で苦しんでいる人がたくさんいます。実際に、この日本でも地震や大津波の被害で苦しんでいる人がたくさんいる。なのに、なんで、どうでもいいことで、死ねとか消えろとかいう人たちが、いるんだろう。以前の私みたいに、自分から死にたいとか消えたいとか、いえるのでしょう。
 この大震災を通して、私は医者になりたいと思いました。失われてはいけなかった命や助けられた命もたくさんあったはずです。
 今、私は避難所の救護班にいます。避難所のドクターが、私のリストカットやODを治療してくれた先生だったから、顔を合わせた瞬間に、言われちゃった『君は、手当のプロだろ。手伝え』って。

 こっちは、夕べ、雪が降ったんだよ。底冷えのする中で、私の担当のおばあちゃんが、『寒い、寒い』って言って震えていた。当たり前だよ。体育館のかたい木の床に、毛布二枚を敷いて、その上に寝てるんだから。かけ布団はなくて、毛布二枚を重ねているだけ。だから私ね、このおばあちゃんの毛布の中に潜り込んで横になり、ずっとさすってあげたんだ。おばあちゃんは泣きながら『ありがとう、ありがとう』って言ってくれた。それから、眠ってくれたよ。
 いつも先生が言っている、困っている人のために何かすることが、相手の人にも自分にも、こんなにも大きな力になるってこと、初めてわかりました。だから、もう私、死にたいなんていわない。リストカットもODもしない。
 先生、ありがとう」

 私は、千佳に、
「ありがとう。今日は君が私の先生です」そうメールを打った。
 そして、無限に続く相談メールへの返信を再開した。

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